Page1.世界会議の美術ミーティング

世界会議を開催する上で欠かせないのが『舞台美術』
今回、演出家・小池博史と美術家・栗林隆の対談がすることになった。

 



 

■小池博史と栗林隆の邂逅

スタッフ
今回小池さんの新作「世界会議」ですが、舞台美術を栗林さんにお願いすることになった経緯を教えて頂けますか?
 
小池
経緯は本当に偶然ですね(笑)
私が栗林さんに初めてお会いしたのはジョグジャカルタでして、偶然だったのですが、すぐに面白い人だと思いました。作品含めて、まぁ、だいたい人は顔を見ればわかると思っているので翌日に再度会って、やらない?と声をかけさせて頂きました。
 
少し前置きは長くなるんですけど、僕が長く感じてきたのは、アーティストや美大生含めて全般に「身体が気持ち悪い」ということなんです。腰がふらふらして、どこに重心があるのかわからない身体の人が増えてきた。美術作品にもその実態は間違いなくコネクトしていきます。今の舞台の世界も同じで、気持ちの悪さがトレンドにすらなっていて、それを持ち上げる人もいる。しかし、まず「根幹」に無くてはならないのは「身体」であってその「身体」がピシッとしていないと、作品が奇妙な方向にいってしまう。奇怪な方向に行くのは全然かまわないけれど、その根っこがよく見えてこないのはまずいんです。舞台は特にそう。
栗林さんはサーフィンをやり、大学時代には剣道部の主将をしていたという。美術家で、面白いよね。それですぐに「舞台の美術をやってみませんか?」と話したんです。なので、最初はどういう作品を作ってる方なのかということを知らなかったんですよね(笑
 
栗林 
そうだったんですね(笑)
 
小池
僕自身のテーマとしても昔から彼と同じで、「いかにしてボーダーに立つか」ということ。「世界を見る」にはジャンルの真っ只中に入ってしまうと見えなくなりがち。それよりはジャンルを「またいでいく」、それは「国境をまたぐ」といったことも含むんですが、「いろんな意味でのまたぎ方」をする中で見えてくるものがあると思ってきた。すると彼もまた「境界線」をテーマに制作を重ねているという話が出てきたんです。良い意味で価値観がいろいろ合致していった。そこで栗林さんの持つ要素と私の持っている要素を合わせてぜひ一緒にやりたいと思ったんですね。面白くなると確信しました。
 
スタッフ
作品を見る前から決めて「行ける」という確信はあったんですか?
 
小池
ありました。
あったんだよな、俺には、何故か。
いや、何故か分かるんだよな、その人の経歴も含めてだいたい顔に出てくるものなので、「まぁいけるだろう」とは思いました。
 
栗林
それは嬉しいですね。
 
小池
いけるかどうかは第一印象で決まる。いけると言っても、『心のなかで期待を込めている場合』と、『最初から確信がある場合』の両方あります。期待を込めちゃう場合、ダメになることもありますが。
 
栗林
(笑)
 
スタッフ
栗林さんはどうして引き受けようと思ったのですか?
 
栗林
僕の場合は、どちらかというと「タイミング」や「流れ」で生きているところがあるんですね。これまでの経験から、自分の中でそれがどうなるのかわからなくても、出会いとして良い「タイミング」で現れる人がかならずいる、というか(笑)
実は僕にとって小池さんはまさしくそういう方でした。
その前まで自分の中で解決しなければならない問題が沢山あって、1ヶ月くらいほとんど人と交流を取っていなかったんですよ。ようやくそこを超えた直後のまさしくその日に、知人から「小池博史氏を知っているか」と連絡を受けたんですね。僕は存じ上げなかったので「いや、知らない」と。
普通はそこで終わりなんですよ。でも、そういうタイミングだったから、たまたまふらっと会いに行ったんですが、そういう時は必ず不思議な人が現れる。そしたら小池さんでしょ?(笑)
失礼ながら「これはすげぇの来たな」と思いました。
 
小池
はい。(笑)
 
栗林
ただ、今回は舞台というか、そちらの世界は全く存じ上げていないので、舞台美術を引き受けるも何も、全くイメージが湧かないというか。
 
小池
ははは(笑)
 
栗林
僕の場合、作品を作る時に、まず最初にイメージがあってからっていうのがほとんどなんですけど、今回のような依頼は初めてだし、僕の中では非常にチャレンジングなものだったので逆に面白いなと思いましてね。とりあえず、できるできないはよいとして、まず受ける、というのが絶対おもしろいことになるだろうなって。
 

 

Vortex: A Letter from Einstein
2015  ©青山スパイラルガーデン


小池
僕が一番重要だと思っていることに「記憶に残す」ということがあって。「記憶に残る」というのは、何か深層に訴えかけるということで、すごく大切だと思うんですね。なんか心の奥底にひだのように残っていく。栗林さんには、特にスパイラルホールで展示された作品を見たときにそういう印象があったので、改めて面白いなと思って。その時、明かりがこんなふうだったらいいよなとか別のことも思ったんだけど、ただあの素朴な明かりが記憶のひだに残る。
 
栗林
あー、いいですね。
 
小池
じわっと残っていく。
 
栗林
当然みなさんそうだと思うんですけど
2011年に3・11という出来事があり、それから5年を迎えた。僕の問題もそうなんですけど、たぶん小池さんと出会うのは、今が一番良かったのかなって思います。5年前とか10年前ではなくてものすごくいいタイミングで会っていると思っているんですよ。だからこれはもう、すごく真剣にやらなきゃいけないと。ただ、舞台というものをどうやっていいかまだ自分の中ではフィットしていないので、経験値が無いぶんまだ想像が超えられていないんですよ。
その反面、今までアーティストとかと話したり、本を読んだりしても、そこまで自分と価値観合う人っていなかったので、はじめてそういう人と出会えたなっていうのがあって本当に嬉しかった。一緒に仕事ができるのが光栄だと思っています。
ただそれとは別に、ちゃんとパンチの効いたというか、自分が思っていることを舞台美術という中で出せればいいなと思っています。
 
小池
3・11は僕にとっても非常に大きなターニングポイントになりましたが、そのずいぶん前から気持ち悪い空気を感じてきました。それまでは色んな思いはあるにせよ、作品の中でダイレクトに表現するということはできるだけ避けてきた。心の中では強くイメージしながら、メタファーとして提示するというか。
僕自身がなぜこんな世界に生きてきたかなんですが、圧倒的な感動が自分を変えてきたし、動かしてきたからなんです。その「感動」が僕の根幹に響いたからこそ、それを生み出し、作り出して共有することがとても大切なんだと思いながらやってきたんだけれども、それがいつのまにか日本では時代遅れになっているところがあってね(笑)そんなバカな、なんだけど。
 
栗林
んー、なるほど。
 
小池
どうも特に日本社会はそうじゃなくなっていて、はるかにエンターテイメント寄りだったり、あるいはいびつな世界だったり、そんなものが受ける時代になってきてしまった。もちろんそれが悪いというのではないんですが、偏向が強くなってきた。その気持ち悪さは1990年代半ば以降、急速に増殖した感がある。これは困ったぞ、何かを根本的に変えていかないと厳しいなと強烈に感じていた時、ちょうど3・11が起きた。それで、もはやこれまで。これからはダイレクトに出していかなければ、と思うようになりました。
 
 

 

■世界会議について

小池
(世界会議と並行して制作している)マハーバーラタは古代に書かれた物語で、いかに崩壊に向かっていくかという話なので、今の世界と相似形だろうと思って作っています。その他に宮沢賢治シリーズを始めたのは、人間はいつしか人間の声しか聞けなくなってしまった、それは根源的なヒトとしての問題で、別の視点から見る、聞く、感じる世界があることを僕らは認識しなければならないと思うからなんです。これも同じで「境界線に立つ」ということ。
そんな中で実施する今回の「世界会議」なんですけど、今の状況を見ると、下手をしたら世界全体がもはや50年も保たないのではないか?という時代になってきた。そこで世界を俯瞰してみていく作品の創作を4回に分けてやってみたいと思ったんです。その第一弾が「世界会議」ですが、僕自身が昔から持っていたテーマと強く合致している感触があります。
僕はいつも美術イメージも音楽イメージも、動きも全部台本に書き込んでいくのだけれど、それはあくまでも創造の起点に位置するものに過ぎません。大事なのはどんな変化を、そこから作り出していくのかということであって、絶対動かせないようなものではない。僕のイメージを他のアーティストがなぞるどころか、壊し再創造するのが面白い。現実世界をもとに僕が脳内で言葉へと変換し、それをさらに美術家や音楽家、出演者が空間にいかにアダプトしていくか? そうしたアダプテーションがきわめて大事。それによって、多重のイメージが重なっていって、新たな、そして不思議な世界観が出てくるのが非常に面白い。
 
栗林
僕は台本を読ませて頂いたんですけど、イメージが強すぎて、僕が入り込む余地がないなぁって。読めば読むほど空間の想像や状況がイメージできてしまってすごく苦しみましたね。だけどその後の打合せとかで、もっと自分たちのイメージを壊してやってもらいたい、と言われ、単純に僕の持っている世界会議の空間みたいなものをとりあえずどんどん出していくことにしました。その中からどんどん発展して今回の世界が出来上がってきているんです。
あと、僕もこれまでダイレクトな表現をして来なかったんですよ。それが3・11以降、多くの作品の中になんというか・・・あの気持ち悪さというか、理解のできなさが出てきて。
世界の現状について考えていない人達がい過ぎるな、と。世の中がこうなっていて、この状況を本当に疑っていないのか、とか、本当に問題だと思っていないかと。作品を通して「この問題はきちんとみんなで目を向けよう」だとか、そういうことをしっかり訴えかけていったりしなきゃいけないなと思うんですけど。あまりにもアートの20世紀的な流れが今なお続いていて、その人達の作品とか観にいっても「こんなことをつづけていくのか?」みたいなことをほんと思ったりします。もちろん、その人達はメディアに多く取り上げられたりしますし。まさしく「世界会議」という問題は非常にリアルな話になってきていて、早くやらないと駄目なんじゃないかと思います。タイミングとしては最高のタイミングでこの舞台は始まるんですけど、2017年、2018年という時代次第で、その先の50年というものがすべて決まっていくというか。そこまでも見据えてこの「世界会議」のスタートであるし、この先も一緒に仕事ができるような作品ができていくといいなと思っています。
 

 

■これからを考えるということ

小池
今さっき、「思考していない人が多すぎる」と言ったけれども、世の中全体が考えない、ものを見ないように、知らぬふりをするようになりましたね。
 
栗林
考えさせないようにしている。
 
小池
うん、考えないほうが、生きやすいからね。
 
栗林
そうそう。
 
小池
楽に生きられる仕組みになってきて、人間は家畜化が進んで来た。人間ってどうしても家畜化を欲してしまう生き物で、そのほうが楽に生きられる。
 
栗林
まさしく
 
小池
そのほうが、餌も与えられて良い暮らしが送れるようになっている。しんどかったらちょっとエスケープしてまた戻ってくるとかね。まぁ僕の場合は昔から真正面からぶつかっていくみたいなことばかりやっているので、なかなか厳しいところがあるんですけど(笑)
それでも、できるだけそういう生き方でもってやっていかないとなあと思います。自分で自分を基準にした美意識をつくるしかないと。
 
栗林
はい。
 
小池
やっぱり難しいんですよ、舞台って。すごく難しいメディアだなと思うようになった。それは情報に還元しにくいという難しさ。なかには情報に還元しやすい作品もあるけれど。
セリフを中心とした劇や踊りに特化した舞台は情報に還元しやすいんですね。技術や言葉は見えやすいし、情報として乗せやすい。でもそれは本来の舞台の姿とは僕は違うと思っています。例えば言葉が中心だというのなら台本を読めば良いし。舞台であるためにはすべてが有機的に絡まり合う必要があるんです。空間を媒介にするのが舞台です。だから映画よりもはるかにメディアとしての難しさをはらんでいる。どちらが芸術として優れているか?という話ではありませんよ。ただね、舞台芸術が、空間、時間を媒介にしながら進んで行く芸術であると理解させるのには実はどうしても民度、すなわち文化力が必要になってくる。それが徹底して落ちている。
 
栗林
なるほど、うん。
 
小池
でも、それが熟成されないままだから、エンタメ作品や情報に還元させられやすい舞台が好まれ、尊ばれる。
 
栗林
まぁ、歴史的に断ち切られてきましたからね
 
小池
だからとっても難しいなと思っているんですね。今回栗林隆という人のアートで行うのだけれど、それが全体の時間と空間の中でいかに有機的に生きていくか、その相乗効果が多様な効果を生み出せればとは思っているんですけれどね。
 
栗林
楽しみですね、僕も。もちろん、楽しみというのには、不安とかも無いと面白くないので、良い意味ですごくワクワクしてます。
この感覚なんですよね、
これも僕にとってライブであって。本当だったら不安だからもう少しこうしておきたいとか、準備を準備を、となるんですけど、この状況はもうライブだなって思ってます(笑)
僕の作品も演出されている中の一部だと思っていて、自分の中では制作中から舞台は始まっていて、作ってお終い、ということではなく、作りだしから小池さんの世界に入っていけるといいなと思っています。
 
小池
そうですね。これを起点にしていろんな展開ができないかなと思っています。シリーズ化もするんだけど、シリーズと言っても全部インデペンデントですし、各々が違ったイメージで展開します。そこでいかに有機的な動きが作れるか、考えたいと思っています。
 
栗林
ワクワクしますね。
  
スタッフ
本日はありがとうございました。
 
取材場所
株式会社サイ / 小池博史ブリッジプロジェクト事務所