あきゅらいず美養品 代表
南沢 典子


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演出家・小池博史ブリッジプロジェクト 代表
小池 博史
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2013年2月22日-24日に実施の「注文の多い料理店」東京初演@あきゅらいず美養品“森の楽校”を記念し、特別対談をおこないました。 あきゅらいず美養品代表・南沢典子と、元パパ・タラフマラ主宰で演出家の小池博史によるちょっと不思議なお話。4回に分けてのレポートです!どうぞお楽しみください。

「丸く、360度に表現されるっていうかんじ」

南沢

(パパ・タラフマラ/小池博史作品は)「考えて観ちゃいけないな」っていうのが、すごく最初にあって……。考えずに、自分の感覚の触手の何を動かして観たらいいのか、作品ごとに、すごく探りましたよね。「島-Island」のときとか、探ってるうちに終わっちゃった!っていうのもあったんですけど……。でも、終わった後に、ボディーブローのように効いて来る。小池さんって、言葉をまとめて喋るの、あんまり得意じゃなさそうじゃないですか。(小池:いやいや、そんなことないですけど(笑))けど、舞台にすると、360度多面的にメッセージが伝わって来る感覚があります。

小池

言葉と感覚、両方なんですよね。言葉って、結局、理解だと思っている人が多い。本当は違うんですけどね。言葉は韻を踏んでいたり、いろんな感覚的な要素をたっぷり含んでいるんですけど。でも、日本にいると、意味から入る教育をずっとされて来てますから、どうしても、「ここでオブジェが出た意味」とか、色彩の変化の意味とか、そんなことばかりを考える羽目に陥ってしまって、やっぱり、そんな解釈型演劇を見慣れている人、意味ばかりを追っかけてきた人は撃沈しやすい。「これは何か?」って大切なんですよ。だけど、そこから離れることもすごく重要なんです。



南沢

その発想がどこから湧いてくるんだろうっていう、なんか、驚きみたいなものがあったりします。

小池

意味と同時に、意味だけを伝えようとは思っていませんから。意味以上のなにかを描こうとしています。そこにある環境的ななにか、空気感、時間の流れ方みたいなもの、そういうもの全部を受け止めてこそ認識し得るなにかを作り出しているつもりです。意味は重要なんだけど、それを越えて、時間や空間からしか生み出されない感触を描くと言ったらいいでしょうか。丸ごと宇宙があるっていう感じですかね。その、丸ごと宇宙みたいなものを、どうやって作るかということを、やって来ています。



南沢

だから、丸く、360度に丸く表現されるっていうかんじなんですね!舞台から発信されるものが360度あるっていう感覚なんです。言われてみると、「三人姉妹」を観てたときには、皮膚とか、いろいろな感覚器から入ってくるんじゃなくて、中からえぐり出されたような、中がひっくり返ったような

感覚を感じたんですね。いろんな感情が目の前にさらけ出されたような。人は普通、それを中に持っていて、なかなか出さなかったり、言葉の端々に見え隠れするものとしてあるんですけど、言葉とか、そういったものを超えて、中のものが目の前に見せられたようなかんじがして、ある意味えぐかったり、渋かったり甘かったり、いろんなものが一気に口の中に入って来た感覚でした。

小池

今は、身体は身体、精神は精神というふうに分けられてしまっている。でも、本来、人間ていうのは、いろんな意味で、感情的なものと身体的なものって確実にぴったりくっついていますから。それが、僕は普通だと思うんですね。それが、ものをつくっていても、作品への反応も、「これは何か?」って意味ばっかり来られてしまうと、なんでそうなるのかが、僕にはよくわからない。えぐいのも渋いのも、見たくないことも常に表とは裏腹に行っているのが人なんですよね。


古典芸能のように、ずっと貫き通そうと思っているもの

南沢

いまちょっと、なんか、わかりました!

小池

はい?

南沢

あの、小池さんそのものが舞台なんだ。



小池

それはそうなんですよ(笑)。作家っていうのは、どうやったってそのままなんですよ。

南沢

だからきっと、意味を求められても、そのものが小池さんだから、言葉と次元が違うところで話をしているから、そう言われても、みたいなことになる。自分の舞台のいろんなこと言われても、わからないっていうことですよね?

小池

いや、わかるんです。それを説明しろって言われれば説明できるんですけど、本当にそうだろうかという疑いは持っているし、それだけじゃしょうがないだろうっていう思いはあります。



南沢

そうですよね。絵画を見て、これは何色ですとか、そういう問題じゃなくて、なんでここに蟻がいるんですか?と言われても説明できない。

小池

それは、説明できるとも言えるんです。説明をしろって言われればですが。たとえばパフォーマーに説明を求められれば、嘘でもなんでも説明できる訳ですよ。

人は言葉で納得した方が動いてくれますからね。でも、それは本当に嘘なのかというと、

嘘だとも言い切れないんですね。いつも、どこか半分の真実っていうのを含んでいます。真実にもいろいろな層があるし、心の深層部分にさえ、さまざまな層がある。だから、どの層まで話を進めればいいのか、それが問われることになる。それは嘘かもしれないんだけど、半分は真実なんですよ。でなければ、たぶん言葉にできないんですよね、それが何かっていうことを。

南沢

それは?

小池

たとえば、ある作品の中のことですけど、パフォーマーがこうやってパンを持ち上げてポーズを取るんですよ。それについて、何でこんな格好するんですか?って言われても、その格好自体の説明はできないけれど、でも、その格好をすることによって、空間がピーンと張りつめて行く、張りつめることによって、次のステージが確実に用意されるわけです。たぶんそのイメージは私の中に確実に存在していて出口を待っているんです、常に。それがなにかを話せと言われれば話すこともできるが話しても、コンテキストにないからその場では意味はない。けれど空間の中では活き活きとしてくる。そういうふうに、それが何か?だけではなく、同時に、空間全体は何か?ということになると非常に話しやすい。


南沢

能とか、いろんな古典芸能あるじゃないですか、それと小池さんの表現しているものは違うと思うんですけど、小池さんのそのラインは、共通するものを感じます。それは、どんな時代の潮流が来ても変えないで、古典芸能のように、ずっと貫き通そうと思っているものなんですか?

小池

スタイル自体は相当変わって来てますからね。たとえば「Ship In a View」「白雪姫」ではずいぶん違う。表面的なスタイルに関しては、どうやって変えて行くか、ということを常に強く意識してきました。変化させることを意識することで常に前の作品はステップになる。ただ、面白いのは、「注文の多い料理店」にも出演する、小谷野哲郎がよく言うんですが、彼はバリ舞踊をやっているんですけれど、「現代の古典だろう」と言っていますね。つまり、古典的なメンタリティーと方法論がきちんと入っている。古典っていうのは、身体だけではないわけですよ。神がいたり、捧げる何かがあったり、あるいは、空間が強く意識されて、そういう中で多大なるコミュニケーションが行なわれている。その点では、たぶん、やっていることはかなり古典に近いだろうと思います。